こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

行動ありきのOSHO禅タロット!大アルカナ旅ものがたり…水・虹の巻

Kohyuzuです。この頃、小学生がランドセルを背負ったまま、5,6人で井戸端会議ばりのお喋りタイムをしているのをよく見かけます。始めの頃は、近くに母親らしき女性もいたので、単純に、親たちが話し終わるのを待っているのかと思っていたのですが、どうも様子が違う。子どもたち自身が、お喋りを楽しんでいるような感じ。朗らかに、明るく、時に、かしましく…のびやかな声に、心がほっこりします。もう、すぐそこに、春がやってきているのだと、実感する日々です。

さて、今日は、昨日のOSHO禅タロットの続きです。火→雲…→→水→虹へと旅していきます。はじめての旅はどうなるのか。いってみよう!

 

雲から水へ…《回想》

【天界から…】おーーーい。こっちじゃよ。なかなかやってこないが、どこで道くさをくっとるんじゃ。よかろう。回り道も、旅の一部ということじゃな。方向性はあっとるんじゃ。やり方は、本人次第じゃ。長い間、生きておると、知らず心配しすぎてしまう。ワシもヤキがまわってきたかのぅ。気長に待つとしよう…。

 

水の旅へ…Ⅵ⇒Ⅹ⇒Ⅶ⇒Ⅸ⇒XⅣ

ふぅ。ちょっと回り道しちゃった。【勇気】を出したら、この峠も越えられるかなって思って。でもそのお陰で、たくさんのヒトに出会ったの。

そこでも、やっぱり、ワタシはワタシ、他人は他人ということを再確認できたわ。だけど、他の人の意見や気持ち、立場を受け入れて、ワタシという人間が立っていられることも分かったわ。これが、きっと【愛】というものなんだ。自己愛を注ぐように、他者にも愛を。それは、お互いを尊重しあうことにもつながるのだもの。ときには、厳しさも必要だってこと。相手を慮っての言葉には、トゲがあっても、愛は宿るのだから。

愛を育んでいたら、いつの間にか、ワタシの周りの環境が変わっていったの。望む方向に進んでいるというか、なにかに導かれて自然と物事がまわっていくような感じがする。どんなことが起きても、ワタシはワタシのまま。それが分かっているから【変化】に振り回されることもない。ワタシは中心でくつろいでいる。ただ、それだけのこと。

そうはいっても、旅していると、様々な自分の感情に出会って、向き合わざるを得ないモノがあることに気づくわ。その度に落ち込むの。でも、なんだか分からないモヤモヤや違和感に気づいたとき、放っておいてはダメ。苦しくても、もがき続ける。本当の自分が【目覚める】ときを待っている。そのことをワタシは、もう知っているのだから。

【孤独】は独りあること。でも、寂しさと共にあっても、顔をあげれば、目指す光が、目の前にあることを発見する。なにを独り、引きこもっていたのか。ワタシ自身の中にあふれるほどの豊かさがあったのだ。自分の道を生きることこそ、無常のよろこび。愛を学び、ただ自分の中に居て、苦しみを糧に、自らが道しるべとなって生きるのだ。

あぁ、こういうことだったのだ。自分とその自分の周りに在るものと、すべて培ってきた旅の学びが、今、まさに【統合】、ひとつになった。やさしさも、かなしみも、苛立ちも、狂気も、すべてが、表裏一体。自分の中に在るものに、善悪や是非の二択で決着をつける必要なんてないのだ。切り捨てたかった自分も含めて、ワタシなのだ。

【天界から…】おう、やってきたな。一段とエネルギーが勇ましく、そして、穏やかになったようじゃな。自らの…自分だけがもつ輝きに気づき、真の光を放っておる。これは、楽しみじゃ。今の己なら、どのような蓋を開けても、つぶれてしまうことはないじゃろう。多少、漂流したとしても、必ずやまた、ここに戻ってくることができるはずじゃ。もちろん、自らの足をつかってな。大丈夫。自分を信じることじゃ。

 

虹の旅へ…XⅧ⇒XⅦ⇒XⅨ⇒XX⇒XXI

ここは、現世なのか?一体、私はなにをみているのか。アレは、自分を認めたくなかった過去のワタシ。ヒドイ顔をしている。両親も、祖父母も泣いている。でも、こうして、手を合わせていると、じんわりと掌が温かくなる感じ。なんだか懐かしい。あぁ、ご先祖さまの血は、今もこうして、私の中で脈をうっているのだな。離れられない…すでに、縁を結んで産まれてきたのだから。お導きに感謝いたします。でも、【過去】には戻らない。感謝して進むだけだ。わたしは、未来を託され、受け取ったのだから。

ふぅ。いろんなことがあったな。まさか、過去の自分に出会うなんて。今の自分、わるくない。確実に前進していることは、分かったもの。周囲に惑わされて、自分を見失うことなんてバカらしい。だって、欲しいものは、自分の中にあるのだから。どのように行動し、表現するか、それだけのこと。自然の中に1人いると、なにも言わなくても、言われなくても、心が凪いで澄み渡ってくる。純粋な【希望】が、あふれてくるよ。

純粋。そう、純度の高い遊びというのは、こういうことだ。【素直・無垢】であることは、なにも赤ん坊の特権ではないのだ。建前やウソでぬりかため、巧みに生きることは楽しい?ユニーク?自分にYESといえる生き方かい?虚無や虚勢となにが違うのだ?心から湧き上がるものを、愛ずる歓び、己のままに生きる。ユーモラスで最上の粋だ。

いま、ワタシは宇宙の只中にある。進む道がわかる。透明だった未来も、目の前にはっきりとみえる。すべてが妄想?幻?現実をみていない?そのような比喩が聞こえてきそうだ。しかし、ココは【幻想を超えた】ところにある現実。いつの間にか、己の願望、エゴを通すだけでは生きられない現世に、足を踏み入れてしまったのだ。全てはつながっている。あなたの幸せは私の幸せ。私が本当に求めるモノが、いまここにある。

あぁ、みえた。あと少し。丁寧に【完成】させて終えることが肝要だ。立つ鳥跡を濁さず…というだろう。次のはじまりが、見え始めた今だからこそ、終わりが輝いて見えるのだ。真実の扉が開くとき、新たな直観があなたを出迎えてくれる。終わらせたくないのなら、あきらめるのなら、また戻るだけ。完成させ、次を始めるかはあなた次第。

【天の声…】おぉ、よくきたな。どうだ。離れてなどいなかっただろう?いつも己の中に、天の声・神の教えは、聞こえていただろう??そこに、自分で気づくこと、到達することが、はじまりの旅であったのだ。もう、ワタシの声も、自らの中から聞こえてくることに気づいたはず。導きは、いつも自分のなかに在る。つながっているのだ。

 

【THE MASTER】

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OSHO禅タロットの最大の特徴は、この番号のついていないカードにある。カードは、弟子たちによって創作されたものであるが、『MASTER=OSHO』の姿が描かれている。MASTERの解釈は、各々にゆだねたい。はじまりの旅を体験した人であれば、必ず、自分の言葉で紡ぐことができると信じている。
 

【「生」を全力で、肯定する。あるがままの自分を信頼する。無償の愛よ、届け!】 

私は、禅の精神については、数冊の関連本をナナメに読んだことはあっても、しっかりと勉強したことはありません。しかしながら、これまでの人生において、禅の教えを自然と実践していることは、確かにあると感じます。偶然にも、必然にも、生きていれば、禅の教えと重なってくるものが、なにかしらあるのだろうと、それくらいのゆるさで、理解しています。【大アルカナの旅ものがたり】は以上です。お気軽に楽しんでいただければ幸いです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

Kohyuzu(こうゆづ☆)