【春分】世の中はフェイクで成り立っている。
愛とか、恋とか。
心のある位置が、愛は真ん中だから真心、恋は下にあるから下心ありという。〈本当かしら…〉と思う。けれど、漢字の成り立ちを意識すると、我々の祖先、民族の心の在り方が、透けて見えるような気がして、チョット愉快になる。
脳内に浮かんでくるイメージは、いつも突然で、脈絡がない。だが、そこには可能性に満ちた〈ナニカ〉が存在している。
ゆっくり、ゆっくり、休みながら歩く散歩道。もう、傍から見ると、お散歩とはいえない光景なのかもしれないけど、ゆるい時間は、スローな風景を伝えてくれる。
晴れた空、ぽかぽか陽気に抱かれて、ポツリポツリと歩く。池に反射する光が、まんまるの鯉の姿を、さらに大きく、陽気に照らしている。弾ける影に手を伸ばして、つかんでみる。
鳥のさえずり、なんと、かしましく逞しいことか。羽音で揺れる空気が、チカチカと眩しい。清々しい生物たちの生命が煌めく空から、ふと、地面に目線を下ろす。刹那に、死が飛び込んでくる。白い羽がバッサバッサと痛ましく飛び散る今、まさに〈狩り〉が終わろうとしている。
あぁ、この光景の先に人がいる。慎ましやかに羽根を拾い〈天使の羽〉だとか、贈り物だとか名づけてありがたがっているヒトがいる…。と、要らぬ想像をしてしまう。不意に差し挟んでしまったこの余計な思考が、残酷で美しい生命の躍動に水を差す。興覚めだ。
追い打ちをかけるように、写真におさめんとするシャッター音が、あちらこちらから聞こえてくる。ガシャッ、カシャンッと、人工的で規則的な音に意識がそがれる。世の中には瞳に映る光景を、映像に残そうとする人たちで溢れている。心地よさを打ち破る機械音。耳に障る。
今日は、晴れ。青空に浮かぶ雲は、エッジが効いていて、どこか誇らしげだ。これは私が見ている景色だ。ところが、他の人には、どうやら、違うものが見えているらしい。同じ景色の中にいるのに、同じものを見ているわけでないことに気づく。
映像は、フェイクだ。
晴れが、タッチひとつで、くもりに、あめに、ゆきに、あらしになる。一度、誰かにバグだと決定された景色は、在ったはずのモノがないことにされている。バッサリと省かれて、切り捨てられた景色は、あたかも、始めから存在していなかったかのように、ふるまう。
遊び。
遊びなのだ。写真を撮るという行為は、記憶の記録などではなく、改竄という遊び。思わせぶりな態度をして、気を引こうとする遊びなのだ。
スローなテンポは、普段、爆走していては、決して気づくことのできない〈無意識〉を連れてくる。無意識につかまると、束の間、気持ちがザラッとする。砂を噛むような落ち着かない気持ち。居心地が悪くて心細い。
しかし、次の瞬間には、驚くほどに、柔らかな風景の中にいることを理解する。
ヒトは、現実を見たいようにみる。現実は、自分が作り出している。それなら、全部、自分が真実だと感じているもの、事実だと思ってみているものは、他の人から見たら、フェイクなんだね。なーんだ、そうなのか。笑える。他人から見れば、本物なんてものは存在しない。まぼろし。
自分だけが見ている世界。目の前にあると思っている現実は、独り占めできるもの。他人の視点は、すべてフェイク。遊びだと思ってしまえばいい。なんて、気楽なんだろう。笑っちゃう。
フェイクなんて、大したことないって。
愛とか、恋とか…。
そんな大層なものかね?
愛という文字には、後ろを振り向き、そこに心を置いて、それでも前を向いて行動するという意味が込められてるんだってさ。
わかった、わかった。信じるよ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
Kohyuzu(こうゆづ☆)