こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

私は【スキがない】女である…という話。

ご訪問ありがとうございます。Kohyuzuです。今日は、ただただ、私の独り言です。〈へぇー、そうだったのか!〉と感心することがあったので、備忘録的に記しておく。今から書くお話は、Twitterでパパッとつぶやいてしまえばよいことなのかもしれないけれど、そのうちTwitterのアカウントは閉じてしまいそうな気がしている。

そう。私は、ビックリするほど、スマートフォンで文字を書くのが遅い女なのである。とにかく、トロい。実に時間がかかる。

私が気軽につぶやくのをためらってしまう理由は、ここにある。私のTwitterはもはや、機能しているとはいえない。漢字の変換を間違えて修正しようとして、全文消してしまう…なんてことは、ザラである。移動中に書き始めて、結局、その時間がむなしく【無】になってしまうことの方が、投稿が成立することより、はるかに多いのである。

不器用な私は、小さな画面での操作が非常にストレスなのだ。しかし、間抜けなことに、このことを自覚するまでには、結構、時間がかかった。気づいてしまったら、なんてことはない。拍子抜けするほど、もっともな理由であった。

一方、ブログは日記のように自分の頭の中を整理できるので、忘れっぽい私にとっては、かなり頼もしい【記憶媒体】なのである。相棒のようなもの。こちらも、大抵の場合、ネタは移動時間に保存しながら書いているが、最終的には、パソコンから投稿している。もっと早くに始めればよかったなーと、少しだけ思うことがあるくらいには、ブログを愛しているのである。

 

さて、この度、冒頭に記した通り、〈へぇー、そうっだったのか!〉と感心…と同時に、傷心…したのであります。ブログタイトルを目にした皆さまは、【隙がない女】と脳内変換しませんでしたか?実は…そうではないのです。ある人から見ると、私は【好きがない女】なのだそうです。んな…バカな…。

けれど、そのように言われてみると、腑に落ちることも、確かにある。そうだったのか!【好きなことだけ100%】というブログタイトルをつけなければならない程に、私は【好き】がなかったんだな…と。まことか!?検証してみよう。

 

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私の行動原理は、ザックリいうと【ワクワクするか、やってみたいか、今、着手している仕事に役立つか】である。おおよそ自覚しているのは、こんなところだ。皆さま、お気づきの通り【好きかどうか】は、入っていないのである。

で、なぜ、こういうことになるかというと、【好きかどうか】は、体験してみなければ分からないから…というのも、もちろんある。けれど、よくよく振り返ってみると、人間の気質としての好き嫌いは、いくらでもあるし、直観的に嫌いな顔だちや容姿なども、はっきりと区別することができる。洋服、車、建築物、絵画、音楽などは、はっきり好みが言えるものたちだ。そう、あくまでも好みにおいての、好き・嫌いはあるものの、このジャンルの中に、私の【好き】があるかといえば、【ない】と断言できるのである。

そもそも、【好き】というのは、寝ても覚めても好き。その時々の気持ちで〈変わるものではない〉という前提が、私の中にはある。例えば、洋服に関しては、色彩を学んだり、販売員として売り場で働いたりするくらいには【好き】であるが、ずっと好きなわけではない。原因不明だが、急に〈洋服なんて着られればいいや〉と、思うくらいに興味がなくなる時期もある。物欲センサーが途端に働かなくなるのだ。

『あなたの好きなことはなんですか?』と聞かれたとき、私が即答できるのは【食べること】が好き!ということだなーと。好きなものを好きなときに好きなだけ好きな方法を選んで食べる。そのためなら、長距離移動も平気。ただし、行列は嫌い。15分以上は待たないルールで、5,6人までの列は、許容範囲。それ以上は、どうしても、それを食べたいとき以外は並ばない。他の候補があれば、迷わず移動する。

【好き】がない女と言われて、その意味を噛みしめているとき、『【好き】は、ひとつで十分じゃないの?』と、感じていた自分がいることに気がついた。そもそもの前提が【好きなんて、ひとつあればいいじゃん!いくつも、必要なの?】と感じていたわけである。なるほど。そうだったのか。私にとっての一番、【もっとも好き】な要素だけが抽出されて、相手には、見えにくかったのかもしれない。

動物もアニメも漫画も妖怪もタロットカードも、寝ても覚めてもそのことばかりを考えている類いのものではない。子どものときから、そばにあって、共に生きているもの。そういった存在である。好きかどうかなんて超越しているのだ。だから、1番以外の好きレベルのものが、その相手には伝わっていなかった。

好きが高じると、突き詰める努力を厭わずに、その分野においては、抜きんでて、突き抜けるエクスタシーのような幸福感に到達することができるはずだ!と思っているが、私自身はまだ、そこまでの域には、行けていないなと感じている。

だからこそ、生きているって意味があるんじゃないの?とも思う。人生は【好き】に生き、【好き】を愛しつづける旅のようなもの。

【好きがない女】上等だ!次に会うときには、堂々と言うのだ。『【好き】なんてひとつで十分だわ』と。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

Kohyuzu(こうゆづ☆)