こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

妖怪noことほぎ★今日と明日の30文字なるもの【the 35-36th】

ご訪問ありがとうございます。Kohyuzuです。知人から連絡があり、以前から気になっていた展示が、最終日であるのを思い出して、急遽、出かけました。その知人は、会うと第一声が、「太った?」か「やせた?」かのどちらかです。無意識なのでしょうが、挨拶代わりに、こういった容姿に関する言葉を投げかける人は、案外いるなーと、感じるようになりました。

どうなのでしょうねぇ。私は言われて、あまり愉快な気がしないので、容姿に関することは、自分から話さないように意識しています。人というのは、不思議なもので、コンプレックスを抱いている分野には、執着があるので、他者と向き合うとき、どうしてもその部分が気になるのですね。自然と、口から出てしまう。

先日、別の友人と出かけたときのことです。友人が思い出したように、10年ほど前に、私からものすごい熱量で〈乳がん検診を受けるように説明されたよ!その勢いは引くほどに、半端なかった〉と、爆笑しながら話してくれました。私には、まったく身に覚えがない。もしかしたら、あちらこちらで、恥をさらしていたのかも。『人のふり見て、我がふりなおせ』とは、このことじゃん!ガーン…と、反省しました。

ただ、そのとき、彼女は爆笑した後に、真顔でこう言ったのです。〈あのとき検診をすすめてくれてありがとう。私がシングルマザーになったから、きっと、身体のことを心配していってくれたんだなーって、こうゆづの意図に後から気づいたんだ〉と。それ以来、彼女は、健康診断を受けるようになったそうです。

私は、一瞬、泣きそうになりました。彼女が〈弱音を吐かない頑張り屋さん〉なのを知っていたから、彼女が倒れたらまだ〈幼い子供たちが残される〉ことを、どこかで心配していたからこそ、勢いそのままに【熱をおびた】説明口調になったのだと、彼女の言葉でハッと悟ったからです。〈嘘や建前の言葉ではなく、人のためを想って発した言葉は、例え、暑苦しくても、押し付けがましくても、真意はしっかりと伝わるのだ〉と、報われた出来事でした。

それでは、今日も妖怪がおくる【今日と明日の30文字なるもの】へ、いってみよー!

 

【0611】今日の妖怪365

牛鬼(ぎゅうき・うしおに):傍若無人
《はじめの一歩》御礼と謝罪の言葉は、相手にすぐに伝えましょう。謙虚であることです。 

 

【0612】明日の妖怪365

桂男(かつらおとこ):送る月日に関守なし
《はじめの一歩》ボンヤリする時間、その1分1秒を心身を緩めるストレッチにあててみましょう。

 

f:id:hirameki_99:20190611115100j:image

 

今日の妖怪は【牛鬼】でした。牛鬼にまつわる伝説は、全国各地、特に西日本地方で広く語り継がれています。話の内容は様々で、その土地柄、地形の特色が色濃く反映された伝承になっているようです。牛鬼は、その名の通り、主に頭が牛で、首から下の胴体は鬼の姿をしていたようですが、天地が逆さまの容貌をしているものや昆虫のような羽をもつ容貌をしたものもいたようです。

牛鬼は、元より非常に【残忍な妖怪】で、人肉を食べることを好むといわれていますが、一方で、そういった性質を助長したのは、人間の仕打ちによるものであるという説も残っています。人への不信感から、次第に、どう猛さを増して見境なく、人を襲うようになったというのです。今日は、この後者の説が残されている【愛洲の里(現、三重県度会郡南伊勢町)】の伝説をご紹介します。

 

三重県では、【牛鬼の祟り】についての伝承が残っています。

  1. 時は中世、おそらくは室町時代のお話です。かつて五ヶ所城主をつとめていた愛洲家。その殿様は、来る日も来る日も、城内で弓の稽古に明け暮れていたそうな。牛鬼は、その稽古の様子を眺めるのが大好きで、日課にしていたそうです。
  2. ある日のこと、いつものように牛鬼が、弓自慢の殿様が稽古をしているところを眺めていると、殿様の射た矢が、牛鬼に命中してしまいました。牛鬼は、山の下にある畑へ転がり落ち、もがき苦しんだと言います。
  3. 明らかに、なにかに命中したことを見知っていたはずなのに、一言の詫びにもこない殿様の態度に、牛鬼は次第に不満がつのっていきます。そうしてついに、怒った牛鬼は、猛毒の煙を猛然と口から吐き出しました。その煙は城内へと流れ込み、運悪く、煙を多量に吸い込んでしまった城主の奥方は、重病を患って寝込んでしまったのです。ところが、殿様は、奥方を案じるどころか、離縁を申し出て、親元の北畠家へ追い返してしまいました。奥方は、このことを儚んで悲しみにくれ、自害して亡くなってしまいました。
  4. 娘に離縁を迫ったあげく、娘を失った北畠家の当主は、当然のごとく、激怒します。そして、軍をおこして、ついに愛洲家を滅亡させてしまうのです。

この伝説では、【牛鬼】は、むやみやたらに〈人を襲う〉性質ではなかったようです。少なくとも、人の遊びに興味をもって、その時間がくるのを心待ちにするような〈愛らしくとぼけた〉様子の牛鬼の姿が、まざまざと浮かんできます。一方で、愛洲家の殿様は、〈無慈悲で非情な気質〉の持ち主であるように、描かれています。牛鬼への無関心、奥方への離縁など〈自分本位〉の性格であったようですね。

〈〇〇してたら、〇〇であれば…〉など、タラレバを言ったらキリがありませんが、殿様は相手を想う気持ち、状況を正確に把握して対応するスキルを持ち合わせていなかったばかりに、二度も過ちを犯してしまいました。

牛鬼も、殿様が詫びにきてくれたなら、その後、妖怪と殿様が一緒に弓の稽古をするような、そんな和やかでユニークな場面〉が物語として語り継がれていたかもしれない。そう思うと、とても残念な気がするのです。

人間同士の関係でなくても、例えば〈人と動物、人と植物〉の関係であったとしても、どちらかが一方的に、関係を見下したり、不遜な姿勢をとり続けることは、良好で賢い選択であるとはいえないでしょう。長年の間に、どこか歪みが生じてきて、気づいたら自分がその責めを負うような事態に、追い詰められてしまうかもしれません。

牛鬼の伝説は、自分の振舞いを客観的にみつめること、振舞いを改める努力を怠らないことの大切さ、人として謙虚な在り方を、教えてくれています。

私が牛鬼の伝説を知ったのは、幼少期にみた『ゲゲゲの鬼太郎』や『マンガ日本昔ばなし』のお話です。どのお話も、牛鬼の性質が少しずつ異なっているので、〈牛鬼は、気まぐれな性格なのかしら…〉などと、思っていました。見た目は強面であっても、話せば、わかり合える妖怪であったのかもと思うと、牛鬼を味方につけていたら、【百人力】であっただろうに…と、惜しい気持ちがします。

 

最後に、もうひとつ。今もなお【牛鬼の手】のミイラが保存されているという、福岡県久留米市の【石垣山 観音寺】に伝わる物語です。天武天皇統治の頃、673年に創建された寺で、非常に長い歴史をもちます。巡礼の地〈九州西国霊場十九番札所・筑後国第三番札所〉としての役目も担っているそうです。物語は、お寺のホームページより、まま引用しました。興味のある方は、ぜひ、訪れてみてはいかがでしょうか。

1062年(康平5年)晩秋のことです。真夜中に「ゴーン、ゴーン」と鳴る鐘の音に住職は驚いて目が覚めました。「誰がつくのだろう」ほの白く沈んだ闇がむなしく、ほかには何も見えませんでした。この不思議な出来事は来る夜も来る夜も起こりました。

そして、鐘の音の後、牛や馬が煙のように消えて、村の娘や子供までいなくなり、村人の不安は募るばかりでした。観音寺の住職は、ある晩宝剣を持ち、意を決して鐘つき堂に隠れ、夜中に鐘をつくものの正体をつきとめることにしました。

夜がふけ、雷雨と暗闇がすべて覆い尽くすと一陣の風と共に現れたのは、頭は牛、体つきは鬼というものすごい怪物だったのです。

住職は修行を積んだ高僧でしたが、この時ばかりは全身に鳥肌が立ち足の震えをどうすることもできませんでした。この怪物「牛鬼(うしおに)」も住職に気づき、真っ赤な口を開けて今にも飛び掛からんばかりでした。思わず、住職はお経を唱え始めました。

するとどうでしょう。牛鬼は急に苦しみだし、住職の読経と宝剣により神通力も失い、とうとう鐘つき堂で死に絶えてしまったのです。

あくる朝、知らせを聞いた村人たちは牛鬼の首を京へ送り、手は観音寺に保存しました。また、この時に牛鬼の耳を付近の山に納めました。それからこの山を誰言うことなく「耳納山(みのうやま)」と呼ぶようになったそうです。

 

先の伝説とは、だいぶ世界観が違いますね。妖怪の物語が、いかに地域に密着した庶民たちにとって身近な物語であったのか、伝わってくるようです。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

Kohyuzu(こうゆづ☆)