こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

妖怪noことほぎ★今日と明日の30文字なるもの【the 32-33th】

ご訪問ありがとうございます。Kohyuzuです。昨日、即興の舞台というものを、初めて観劇してきました。まぁ、そうだろうとは予測していましたが、苦手な大音量。そして、私の眼には明るすぎるライト。それでも、芝居に引き込まれて、すぐに気にならなくなりました。人の聴覚は、案外、素早く適応するようにできています。ありがたいことです。

以前も書いたような気がしますが、もともと映画をみても、本を読んでも、1回で内容を把握することは、ほぼないと断言できる私。即興劇とはいえ、ストーリーの【起承転結】は、もちろんあります。パンフレットにも、あらすじは書いてありますから。

帰宅後に、さっそく相方に感想を聞かれて、困ってしまいました。いつものとおり、ざっくり説明した後、そうだ!パンフレットがあった…とばかりに渡すと…、相方は、私の説明の中に〈重要なワード〉が、全然入ってない!と、苦笑い。あー、やっぱりか。

舞台は、台本なしの【即興】で作るスタイル。とにもかくにも、リアルな言葉の応戦の連続で、息つく暇のないライブ感が素晴らしい。とても楽しい!ワクワクする。熱気と知力を尽くした戦闘感が、半端ない。こんな、スリルを味わってしまっていいのか!というくらいのスピード感あふれる【心身一体】となった表現。芝居の中盤までに、グッと観客を引き込む情熱の高まりは、見事としか言いようがない。

出演者すべての個性が、ギラギラと燃えている。誰一人、ボーっとしてはいられない。それは、演者だけでなく、見ている方も同じだ。手に汗にぎる、力が入って、前のめりになる。芝居に緩急をつけ、その場にいる者すべてを、見事に揺さぶり続ける〈Boss柏原さん〉を筆頭に、一丸となって、緊張感を保ちつつも堂々とした演技を続ける。

いやー、本当に素敵な舞台。なにより【爆発的な若さ】があふれたエネルギーの宝庫。まぶしかったよ。私の眼には、明るすぎたライト。それは、電化製品としてのライトではなく、みんなの身体からほとばしる【輝き】だったんだ。

こんな溌溂とした舞台、きっと他にはない。そして、毎回なにが飛び出すか分からない新しさ。鮮度ピチピチ、唯一無二の個性がきらめく舞台。明日、6/9が最終日です。お時間ある方は、ぜひ、Lingua Franca(リンガフランカ)へ、お問い合わせしてみてください。運がよければ、あなたのナマの言葉が、舞台上でイキイキとした息吹を放つ【キーワード】になりますよ!

連日、前置きが長くなってしまいました。それでは、妖怪がおくる【今日と明日の30文字なるもの】へ、いってみよー!

 

【0608】今日の妖怪365

付喪神:後生大事
《はじめの一歩》古きよきものと新しく便利なもの、どちらも心にとめて、大切に使いましょう。

 

【0609】明日の妖怪365

八百比丘尼(やおびくに):行雲流水
《はじめの一歩》やるべきことをコツコツと、やりたいことを大胆に、人生を創造していきましょう。

 

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今日の妖怪は【付喪神】でした。 古きよきものの中に、新しいものを取り入れて融合していく。それは、付喪神にも、私がワクワクした即興の舞台にも、どこか共通する源流が見いだせるのかもしれません。舞台というものは、古き伝統として、歌舞伎・狂言・落語・漫談など、受け継がれてきた文化がありますね。

変わらないものもあれば、少しずつ時代の中で、進化しながら語り継がれていくものもある。付喪神も、長く大切に使われていた道具、だけど、どこかで忘れ去られてしまった道具。それでも、また手にとると愛着がわくもの。新旧どちらか一方の良さもあるけれど、両方が相互に影響しあうことで、より心に響く、記憶に残る世界観を描き出していく。

付喪神の付喪(つくも)とは、本来、九十九と書いて〈つくも〉と呼びます。【とても、長い期間、多くのモノ】という意味があり、作られて九十九年の期間が経った道具の霊魂を指していたようです。後世に、【古道具の妖怪】の総称に転じました。

道具の霊魂は、百年たつと、妖怪に化すという噂が、信じられていた時代には、道具は百年経過する前に、捨てられていたと言います。まだ、活躍できるのに、捨てられた道具たちは、感謝もせずに粗末に扱われ捨てられることに怒りを覚えて、そのやりきれない憎悪が、人々への復讐心を駆り立てたそうです。すでに、この時点で、道具が明確な意志をもつものとして、擬人化されているのが、滑稽です。

そうして、百年経たずして、化ける能力を身に着けて、な・なんと、最終的には【鬼】になってしまったのだそう。ただ、さすがに、すぐに鬼と化したわけではなく、まず、道具に、顔(目・鼻)、手足がついて、次第に〈道具としての性質を失っていった〉後に【鬼】になったというのです。胴体などの身体の一部には、その道具としての属性をとどめたまま、異形のモノに変化してたため、その姿が、人々の関心をあつめたといわれています。

こうして、人の記憶には、道具に、顔と手足がついた妖怪の姿が強く刻まれました。古道具の妖怪【付喪神】の誕生です。18世紀後半には、怪談集『百物語』、庶民の中で広がった『民間伝承』などを集めて、浮世絵師である鳥山石燕著の『画図百鬼夜行』が刊行されました。ここから、次々に妖怪の絵画や造形化が加速していって、人気を博していったようです。

付喪神の領域は、〈玩具・遊具・着物・屏風・印籠・根付〉などの日用品にまで広がり、キャラクターと化した妖怪文化は、最高の盛り上がりをみせたと言われています。

果たして、百鬼夜行として闇に紛れた付喪神の復讐は成し遂げられたのか?付喪神たちの悪事に途方にくれた時の帝は、付喪神の退治を僧正に命じます。最終的には付喪神は、改心して仏門に入り【仏様】になったそうな。すごく、人間のご都合主義的な話だと感じるのは私だけでしょうか。なんとも、もののあはれかな。

そもそも、古代の妖怪的な存在は、〈鬼・大蛇・狐・天狗〉であったものが、中世・室町時代には『付喪神絵詞』にあるように、人がつくった道具の中に【霊魂】を見出し、道具の妖怪たちを主人公に据えるというのが、なんとも不思議な気がします。アニメや漫画というオタク文化の芸術域にも、妖怪文化の精神が受け継がれているような気がしてなりません。【妖怪好き=マンガ好き】とは限らないでしょうが、私はどちらも、好きですねぇ。

椎橋寛氏の代表作、【ぬらりひょんの孫】では妖怪、百鬼夜行の世界が活き活きと描かれています。ご興味ある方は、ぜひ!

身近なもので思い浮かぶ妖怪の絵といえば、河童でしょうか。黄桜酒造さんの「黄ィー桜ァ―呑(ドン)♬」のCMの影響で、私の中の河童のイメージは、黄桜さん。実存するかどうかはわからないけれど、異形なるモノが、親しみのあるキャラクターに化して、人々の心の中に浸透していったよい例だと思います。妖怪に伝わる物語を読んで、自分なりの妖怪の姿を創造してみるのも、楽しいかもしれませんね。妖怪の姿に〈コレ!〉という決まりはないのですから。

付喪神】は、道具の妖怪と化したわけですが、根本には、怒りや復讐心だけでなく、道具としてのプライド、意地のようなものを感じます。イイ道具には、妖怪が宿る。長く使用しても壊れず、手に馴染む道具には、付喪神がついている。そう考えると、なんだか付喪神は、とてもありがたい存在にも思えてきます。

100円ショップの商品も、いまやかなりのクオリティーを誇っています。便利な道具に対する敬意、感謝の気持ちは、道具の値段に比例するとは限りません。モノがあふれる時代だからこそ、あなたが選ぶ、あなただけが知っているお気に入りの道具を、大切に使い続ける心持ちを理解していることが、【粋な生き方】であるといえるのかもしれません。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

Kohyuzu(こうゆづ☆)