こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

妖怪noことほぎ★今日と明日の30文字なるもの【the 26-27th】

ご訪問ありがとうございます。Kohyuzuです。先日、ふと、耳に飛び込んできた、フレーズが、しばらく気になっていました。どこのコマーシャルなのかと、アンテナをはっていると、吉田羊さんと有村架純さんが出演している、ホットペッパービューティーのCMでした。〈コンプレックスは、きれいの原石〉というフレーズ。

若い頃は、全く意識していなかった、このフレーズ。実は、年を経るにつれてジワジワと、重みが増してくるのを感じています。少し前に、とあるワークショップに参加したときにも、同様のことを、自らの体験として、話されている方に出会いました。

コンプレックスは、生きる原動力になる、そして、〈コンプレックスは〇〇の原石〉だというのです。この〇〇には、好きなようにどのような言葉を入れても、イイと思います。あなたなら、どのような言葉を入れますか?

若い頃に、強烈なコンプレックスを抱いた人というのは、私の知る限りでは、そのコンプレックスを克服しようとするガッツ、根性のようなものが備わっています。長らく、自分のコンプレックスに、真正面から向き合って、もがくうちに、いつしか精神的に鍛えられ、タフになっているのです。

まさに、原石が輝きを増して、自らが光を放って輝くのです。それは、よもや、過去には、コンプレックスであったとは、気づかないほどの【自信】に満ち溢れた輝きです。

コンプレックスの程度というのは、痛みと同じ。知覚はスケールで、容易に、はかれるものではありません。千差万別、個人差が大きいものです。そして、コンプレックスを克服する環境を、自ら、創りだしていけるかも、その人次第です。逃げずに向き合うことで得られるもの、それは、ガムシャラに戦っているときには、分からなくても、後々必ず、自身の力になって返ってきます。

コンプレックスに、気づくことは、自分自身の原石を、探求する旅でもあるのです。

前置きに、熱が入ってしまいました。それでは、今日も妖怪がおくる【今日と明日の30文字なるもの】へ、いってみよー!

 

【0602】今日の妖怪365

通り悪魔:虚心坦懐
《はじめの一歩》努めて、平常心でいること。自分がニュートラルでいられる場所を探ってみましょう。

 

【0603】明日の妖怪365

火車:蓋棺事定
《はじめの一歩》あなたの良さを知っているのは、あなたでもあり私でもある。客観的な視点を意識しましょう。

 

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今日の妖怪は【通り悪魔(通り物)】でした。

時は、お江戸の享保元年、四谷のとある夕暮れのこと。女性が縁先でぼんやり景色を眺めていると、なにやら白髪の杖をついた老人が、ニタニタとした笑いを浮かべながら近づいてきました。その姿に、ただならぬ気配を感じて、気味が悪いと思った女性は、すかさず、お経を唱えて、心を静めることに専心したといいます。すると、いつの間にか、先ほどの老人は、姿を消していたそうな。

間もなくして、外の様子がなんだか、騒がしい。あとで聞いたところによると、女性の4軒先にある屋敷に住んでいる医師の妻が、急に気がふれて、狂ってしまったのだというのです。この事象は、通り悪魔の仕業で、ぼんやりと過ごしている人に取りついて、乱心させてしまうのだと、恐れられていたそうです。

今でも、よく分からない理由で、不特定多数の人を無差別に狙って、人を殺めてしまう、危害を加えるモノを、【通り魔】と呼んでいますが、江戸の時代には、こういった事象は、妖怪の【通り悪魔】が憑いたために、引き起こされたと考えていたようです。

このような伝承は、江戸時代に書かれた随筆集に、実に様々な逸話となって残されています。【通り悪魔】が現れたときに、その怪異に気づき、心静かにやり過ごして、平常心を保った者には、災いは起きなかったそうです。【通り悪魔】をみて、ひどく狼狽したり、慌てたり、あるいは、気づかないほどにボーっとしているモノに、取りついたいわれています。

江戸時代は、理由が分からないもの、判断しかねる事象などは、おしなべて臭いものに蓋をするように、怪異の仕業であると捉える傾向が強化された時代であるのかもしれません。庶民の間で、まことしやかに、怪異のうわさが広まったのも、妖怪を画図集や物語で視覚化したことが、大きく影響しているような気がします。

物事の本質、事実を見極めるだけの証拠や追及するだけの技術が、伴わなかった時代には、人々の余計な不安を煽らないように、意図的に、妖怪という怪異を仕立て上げて、収拾を図ったのかもしれないですね。

 

ただ、ある日突然、人が変わったような行動をとるようなことは、誰の身にも起こりうることなのかもしれないと、個人的には、思うこともあります。魔の瞬間は、人という生物(知覚し、考えて、行動する知恵を備えた生物)である以上、誰のところにも、存在します。時間は、空間を縦横無尽に、自由自在に行き来し、その概念の意味するところは、無限です。

急性のストレスは、自分の行動とは無関係に、突如、襲ってきます。その瞬間の爆発的な心身への負担、その影響は、はかりしれません。

だからこそ、常日頃から、外部の影響に惑わされない自己、自分の軸をもち、その中心にとどまっていられるようにという、教えが活きてくるのでしょう。かくいう私は、不測の事態に取り乱さないでいられる自信は、まったくないのですけどね。年を重ねても、まだまだ、ひよっこ。人生は、学びの連続ですな。

 

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

Kohyuzu(こうゆづ☆)