こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

妖怪noことほぎ★今日と明日の30文字なるもの【the 38-39th】

ご訪問ありがとうございます。Kohyuzuです。残念すぎるお知らせです。あと、もう一歩で書き上がるはずのブログ記事が、一瞬で消えてしまいました。復元もできず、なおかつ、今日に限って、バックアップしていない。悪夢です…。こういう経験は、ブログを書いている人には、起こりうることですね。3000文字強の記事が、一気に、さようならぁー。めまいがする。

と、愚痴っていても、しかたないですね。今日は、アッサリと行きます。そして、30分で書ける範囲内で、復元していくことにします。お付き合いいただけると嬉しいです。

情報番組をみているときに、相方が首をしきりに捻っていました。「合ってますか?」と、相手に幾度も確認する、その言葉がどうも引っかかったようなのです。食リポの場面であったため、私はすぐに、「その店の味の特徴であるキーワードと、真逆のことをいっては、失礼にあたるので、あえて確認しているだけなのでは?」と伝えたのです。けれど、相方は、しっくり来ていない様子。

どうやら、こういった場面に心当たりがあるようなのです。この「あっていますか?」と確認する言葉、今の若手社員の傾向だと感じるのだそう。相方は、この言葉をあえて使って、相手に確認する真意がよく分からないのだそうです。

〈あっているか、あっていないか…〉ということは、その答えが相手の求めている正解なのかどうか、つまり、〈正解が必ずある〉と思っているからこそ、こういった質問がでるのではないか…というのです。そして、正解と思われる答えを、自らの手と頭を動かすことをせずに、安易に知ろうとする姿勢が引っかかるのだそう。

はい、ここまでで、面倒だと感じた方!正解です。相方は、言葉のチョイスにものすごくうるさいです。繊細です。おそらく、使いこなせる語彙が多いので、その状況に最適な言葉を選ぶクセ、そこに心を砕く習慣というのが、自然とできる人なのだと思います。なので、なにを食べても「ヤバい」とか、なにをみても「かわいい」とか。そういった短絡的な言葉は、即座に否定されます。私も、しょっちゅう、言葉を訂正されます。プライベートならともかく、オフィシャルで、こういった言葉を使うのは、いかがなものかと考える人です。

改めて、私は、彼の生きづらさに触れて、胸が痛みました。彼の腹の底には、いつも〈憤り〉のようなものが溜まっている。確かに、説明を聞けば、彼の言い分も、ある程度までは理解できます。でも、大抵の人が、スルーして見過ごすことができる言葉…そのひとつひとつに反応しているとしたら…。それを日常の中で、幾度、グッとこらえて噛みしめるのでしょう。時々は、気持ちを開放することができたとしても、一体、今までどれほど、莫大な情報と言葉を飲み込んできたのだろうと。とても、やるせない気持ちになります。

さて、本日6/14は、【認知症予防デー】なのだそう。本当は、認知症をメインにした前置きを書いていたのですが、文字が吹っ飛んだ瞬間、今日は昨日の時間を越えてしまったので、同じことを書くのが嫌になり、急遽、相方の話へと変えてみました。認知症については、いつの日か、書きたいときがきたならば、再び、記してみようと思います。

それでは、気を取り直して、今日も妖怪がおくる【今日と明日の30文字なるもの】へ、いってみよー!

 

【0614】今日の妖怪365

管狐:濡れ手で粟
《はじめの一歩》今は、結果に囚われず、プライドをもってやり続けましょう。努力は必ず報われます

【0615】明日の妖怪365

アマビエ人間万事塞翁が馬
《はじめの一歩》予測不能な未来を案じるより、今できる最大限のことに目を向け、取り掛かりましょう

 

f:id:hirameki_99:20190614113630j:image

 

今日の妖怪は【管狐】でした。〈クダ=管〉は、竹筒を意味しています。管狐は、長野県を中心とした中部地方に伝わる憑きもので、小動物をこの管の中にいれて、持ち歩いたことに由来するそうです。私たちがイメージする狐とは、違っていたようで、イタチやモルモットくらいの大きさの動物を、竹筒で飼っていたといいます。

本来、管狐は、山伏が厳しい修行を終えた後に、やっとの思いで、大峯山(現、奈良県吉野町)から授かることができるものであったようです。日本は、国土面積の3分の2、約7割ほどが森林で、山と共存してきた民族です。日本列島は、北から南まで山脈が中央に走っていて、日本海と太平洋側をわけるように貫いています。こういった国土は世界的にも、珍しいようです。

〈山伏〉とは、山岳信仰を慕って、厳しい山々で修行し、悟りを開いて仏果を得る【即身即仏】を実修する、日本古来の〈宗教の実践者〉のことをいいます。山伏のように厳しい修行を修めた者だけが、管を使いこなすことができたのだそう。管狐は、他の家から金銭の類いを集めてくるのが上手かったらしく、裕福になるために、なんとかして管狐を手に入れたいと願う人も多かったようです。

ところが、現実には、管狐のとり扱いは、かなり難しく、一度竹筒から出した管狐を、筒に戻すことは容易ではなかったそう。山伏だけが、うまく管狐を飼いならすことができたといいます。管狐は、かなりの大食漢であったようです。食事を与えると、人の心中を正確に汲みとり、山伏の片腕となって情報を集めてきました。そうして、飼い主である山伏の命令に従って、人に憑き呪うことができたと、伝えられています。

はたして、厳しい修行に耐えて徳を積んだ人が、人に憑いて病いを引き起こす…という類いの呪術を発動したのかどうか…んー、かなり疑わしい。

管狐は、75匹になるまでは、一方的に増え続けたといわれています。そうして、かなりの大食いであったがために、管狐を飼い続けることができず、一旦、〈富の幸福〉を享受した家も、最終的には食いつぶされてしまったと伝えられています。

さて、この〈75〉という数字。どうもはっきりしないのですが、【狐憑きの家・狐使いの一族】を示唆する〈隠語〉であった可能性があります。なぜか?憑物の物語だけを編纂した書籍のなかに、『75匹の眷属』という言葉を見つけたからです。【眷属】とは、血縁・一族という意味ですが、神話のなかでは、たびたび〈〇〇使い〉という言葉で登場しています。つまり、管狐の使い手、その一族であることが、地域の人々の間で共通して、認識できるように〈75〉という数字が使われていたのではないかと思うのです。まぁ、それでも、なぜ〈75〉なのかは謎です。

個人的見解ですが、管狐の伝承には、代々受け継がれてきた一族の【業、因縁】のようなものが意図して、含みをもたせているような気がします。選ばれた人々という印象です。

管狐の言い伝えは自分が裕福になるために、修行の努力をすることなしに、自分の手には余る管(道具)を手に入れようとする〈人々の愚かさ〉を説いています。安易に、怪異の力を借りることで、自分の欲望を満たすことは、自分の信じる道を進むプロセスを無視し続けること。一度、安きに流れて甘い汁を覚えたものは、つぶしが効かないため、崩れ始めたものを、自らの力で立て直すことができません。

冒頭のエピソードのように、自らが考えた結果、自らが思う正解を相手に伝える。目的や意図の理由を説明する。〈正解は、自分があっていると思うところにあるのだ〉という、強気な姿勢。こういったプロセスなしに、相手に正解を求めてしまっては、自らの個性が放つ輝きは、ドンドン、失われていくような気がします。

管狐は、人々の弱さ、無気力、強欲な思いに、つけ込む隙をねらっています。物事に、一生懸命取り組む姿勢は、自分の為にも、人の為にも、社会の為にも役立つ自分に成長する機会を支えてくれます。こうした努力を怠らない人のところには、管狐は、決して甘い誘惑をささやくことはないでしょう。〈自分の財(たから)は、自分で汗水たらして稼ぎ、築くこと。それが人としての心を満たす幸せであること〉を、管狐は教えてくれているのです。

 

あっ、結局1時間かかちゃった。 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

 

Kohyuzu(こうゆづ☆)