こうゆづ☆の【とおまわり】

令和元年12月に、ブログタイトルを変更しました。心の動くままに、とっちらかったテーマで書いています。

「個」の時代に生きるということ、生命・生存の意味を痛みに問うてみる

Kohyuzuです。連日、気温が高く暖かかったので、うっかり薄着で出かけ、帰り道で後悔しました。花粉、飛んでいますね。私は花粉の影響が眼にでやすいです。眼が赤くなり、まぶたが浮腫むので、常に眠そうな顔になります。

今年1月にアレルギー性鼻炎に対して、経皮吸収型製剤(商品名:アレサガテープ4mg、8mg)が承認され、発売開始になっています。貼付薬どうなのでしょうね。1型アレルギーに反応しやすい方は、皮膚もデリケートだと思うのです。とはいえ、使用可能な薬剤の選択肢が増えることは、やはり、ありがたいです。

先日、小学生の頃の記憶を辿り、思いがけず心を揺さぶられる言葉に出会ったことを、ブログに書きました。その時、【あるシチュエーション】も一緒に浮かんできました。恐らく、イジメや虐待などで、命を断つ、あるいは、絶たれる子どもたちのことが、毎日のように報道されていることも、記憶を呼び覚ます要因のひとつなのだと思います。以下は、独りよがりな主張になってしまいますが、【生命・痛み・イジメ】などをキーワードに、述べようと思います。お付き合いいただける方は、読んでもらえると嬉しいです。

 

「個」の台頭で、「共生・共助」の時代は The END なのか

吉田秋生さんのマンガ【海街diary】をご存知でしょうか。昨年末に最終巻が出て、連載はおわっていますが、鎌倉を舞台に、日常をとても丁寧に、繊細に描いた秀作です。登場人物1人ひとりの何気ない心の動きが、イキイキと伝わってきて、艶美な躍動を創りだしています。奇をてらっていない等身大の自分が主役。「生きていれば、こんなことあるよね。」という共感性のあるメッセージが、読み手を惹きつけるのだと思います。

そのマンガの中の一場面。ある人の死の原因が「自分にあったのかもしれない、どう接していれば、彼は死ななくてすんだのか」と、自責の念と共に生きてきたK。そのKに対して、Yは次のような言葉をかけます。

「あなたは間違ってなんかいない。ありがとうって言ったその人の言葉も、ウソじゃない。でも、そのことと死ぬことはきっとべつなの…(略)…生きることの先に死があるんじゃなくて、死はいつも影みたいにそばにいるんだって。…(略)…それは突然、顔を出すの。その人はついその顔をみてしまったのよ。(どうしてその人が自殺してしまったのか)それは、誰にもわからない。答えはないのよ。」と。

私は、このセリフが好きです。人間はこの世に誕生した瞬間から、死に向かう存在です。普段は、そのようなこと、ほとんど意識して生きていない。特に、身体が丈夫で、体力に自信があれば、なおさらです。自分は寿命を全うできる、死に際は自分で決めることができると感じるでしょう。上の【赤字で記したセリフ】は、看護師の主任であるSが、患者と接して話をしていくうちに、思い至った気持ちなのですが、Yのセリフとして描かれています。しかしながら、患者など特定あるいは限定的立場に限らず、どのような人にでも、このセリフは、ある意味、あてはまるのではないかと考えています。今、この瞬間は笑っていても、次の瞬間には、悲しみで沈んでしまうかもしれない。怒りに打ち震えるかもしれない。こういった感情の揺らぎの中で、私たち人間は、生きています。

つまり、なにが言いたいのか。連日の報道、イジメも虐待もDVも殺人も、決して【他人事ではない】ということです。発達した脳を有したヒトという生物には、私にもあなたにも、天使のような優しさと、悪魔のような凶暴性、光と闇は存在しうるからです。


先日、所ジョージさんの番組で、以前倒れたことがある90歳の女性の身体を心配して、91歳の女性が急いで高台から降りてきた場面が放映されていました。私は、ここに「共生・共助」という福祉の在り方を、とてもナチュラルに体現している暮らしを、垣間見た気がしました。今は、「個」の主張が強い時代です。個性を認める、自分がどう感じるか、なにをしたいのか、自分の発信したいことはなにか、自由で豊かに才能を表現すること、これらが許される時代であり、とても素晴らしいことだと思います。一方で、【共生・共助】は、古い時代だけのものなのでしょうか。互いに支えあい、補いあい、扶けあう精神は、忘れ去られるだけの単なる時代遅れの産物なのでしょうか。

私たちは、ある側面を切り取れば、1人で生まれてきて、1人で死にゆく生物なのかもしれません。自分の人生は自分で決める!ただ1人の人生なのかもしれません。けれども、ヒトの精子卵子が交わり、ヒトの子宮の中で約280日間、栄養を供給され続ける状態にいなければ、決してヒトは生まれません。そこには、【人と人の介在】が、必ず存在します。その最中に、どのような感情、思考、行動がうまれようとも、人として産まれるためには、人の身体の中で育まれるという状況が、現状では不可欠で、そこにウソはありません。【個(性)は、共生の場でこそ、輝く】と、私は思います。

 

知覚…痛みを感じるということ

【痛みを知覚する】ことができるか、【痛みを他者に伝える】ことができるかは、生物にとって、とても重要です。例えば、一緒に暮らしている犬の言葉を、私という人間は、正確に読み取ることは、できません。けれど、鳴く、掻く、齧る、舐める、呼吸、歩行、姿勢(体勢)、食事、排泄物、体重などの状態を観察することで、限界はありますが、予測し推察することができます。犬と人という種(しゅ)を超える関係であっても、【痛みという知覚の声】に応えることは、ある程度可能です。

では、人と人ではどうでしょうか。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚などの五感、発声をつかさどる器官(鼻腔・口腔・声帯・気管・喉頭咽頭など)が機能を失うことなく発揮できる場合には、お互いに言葉を用いて、痛みについて表現することができるといえます。ここでは、身体が機能的に働き、器質的病変がないことを前提に話を進めていきます。

人間の脳は、非常に発達しているがゆえ、その働きは複雑です。そのため、痛みを知覚しても、犬のように本能的、直接的な行動をとるとは限りません。現実にできた創傷を痛みとして知覚できるのは、身体が健康であるという大切な証です。例えば、糖尿病の進行に伴い神経障害を発症した場合、【知覚鈍麻】という状態になります。特に、手足指先など末梢の痛みには、無自覚になります。痛みを感じないということは、ガラス片を踏んで、足に傷ができたとしても、気づかないということです。傷はそのまま放置されてしまいます。

数日後、刺身を食べようとして、うっかり床に落とし、傷のある足で踏んでしまったとします。日常生活で、起こりうる些細な場面…普段は、気にも留めないような状況から、傷口に細菌が付着し、感染します。糖尿病そのものが、感染しやすい(易感染)という特徴をもつため、小さな傷であっても、気づかないうちに【感染⇒化膿⇒潰瘍】という機序を、たどりやすいのです。糖尿病患者のフットケアの重要性は、ここにあります。

話が逸れてしまいました。痛みを知覚できるということは、いまこの瞬間にも生命が在る】ということです。さらには、細胞が生きている証しであり、同時に、細胞の修復が可能であることも示唆しています。身体的な異常をキャッチするために、人間に備わっている重要なサインです。その身体の発している声、サインを大切にしてほしいのです。

赤ちゃん(乳児期)は、原始反射が残る、【本能と行動が直結する時期】なので、「泣く」という、唯一の発声法をフルに活用して、自らの【生存】を知らせます。『お腹すいた。おしっこした。うんちした。』そのうち、世話をしてくれる人、親密な人の匂いを知覚するようになり、『抱っこして。そばにいて。』と、ありったけの温もりを【愛を受け取る】ことを要求しはじめます。これは人としての成長です。この時期に、安心できる味方を、赤ちゃんは確保しておきたいのです。なぜなら、1人では生きていけないことを、【生存し続ける】ためには、強力な味方、助けが必要であることを、本能的に知っているからです。

生きるための痛みは、時として必要です。しかし、その痛みの感じ方は千差万別です。それでも身体的な痛みは、外科的、内科的方法を用いて、医療的に修復、治療することができます。ところが、人間の脳は【心の痛み(キズ)】という、その全てをカタチにしたり、言語化したりすることができない、不確かなものを知覚します。(もちろん、人間以外にも、心の痛みに近しいものを感じて、表現する生物は複数存在します。)

心の痛みは、容易にアクセスできない部分に留まるので、厄介です。その多くは、センシティブな状況が複雑に絡み合って存在しており、当人でさえ、説明がつかない感情や記憶を抱え込んでいることもあります。心と身体がちぐはぐで、分離したような感覚が慢性化すると、【生きる=苦痛の根源である】と脳が錯覚します。当人にとっては、錯覚ではなく、むしろ、それが唯一無二の真実であり、苦痛から逃れることができる正しい道であると主張するかもしれません。それほどに、心の痛みは、無自覚に、無慈悲に、自己を追い詰める】ことがあるのです。

 

安全…子どもを守るということ

【安全・安心】多くの人が、自然と口にする言葉です。内閣府が掲げたスローガン、目標にも多数登場するキーワードのひとつです。ところで、この世界に、安全や安心の現実は存在するのでしょうか。【子どもを守る】ということは、どういう状況をいわんとしているのでしょうか。目指すところ、考えることは、百人百様、違うはずです。その違い(どのように考え、感じて、行動するのか)を自問することが、きっと、他の誰でもないあなた自身が【子どもを守ること】に、つながっていくのだと思うのです。

最後に…冒頭に書いた、ある【シチュエーションの記憶】について記しておきます。

小学2年生の頃、クラスメートのAちゃんは、数人の男の子から、イジメられていました。教科書や上履きを隠されたり、机に落書きされたり、椅子を外に出されたり…といった類いのイジメです。暴力はなかったと思います。きっかけは、女のくせに生意気とか、いつも同じ洋服を着ているとか、そのような言い掛かりです。

授業参観の日、いよいよ授業が終わろうという、まさにその時に、Yちゃんの母親がナイフを片手に教室に入ってきました。『うちの子をイジメているのは、誰か。そして、その親はどの面下げて、この場に来ているのか』自ら申し出るよう、要求したのです。化粧もせず、長い髪を振り乱して、ナイフを手にした姿、その迫力は、度肝を抜かれるほどに鮮烈で、今でもAちゃんの母親の姿が脳裏に焼きついています。その場がどのようにしておさまったのか、私は全く覚えていません。恐らく、親だけが残って保護者会のようなものがあり、全校集会が開かれたのだと思います。

こうして、Aちゃんへのイジメは、ピタッとなくなりました。

さて、このエピソードを読んで、あなたはどのように思ったでしょうか。直感的につかんだことが、きっとあなたの正しさ、正義なのかもしれません。【子どもを守る】ことは、「あなたにとって、どういうことなのか。」を自問する、なんらかのヒントになれば幸いです。

今の世の中であれば、このような場面に遭遇したら、即、動画で発信されてしまうことでしょう。良くも悪くも【明るみに出る・出す】ことが、特徴的な時代を、我々は生きているのですね。十年一昔…どころか、『半年で一昔』と感じる流れのなかに、私はやっとの思いで、佇んでいるような気がしています。

 

最後までお読みいただきまして、ありがとうございます。

Kohyuzu(こうゆづ☆)